Histories of NORITAKEファンシーウェアの時代へ

洋風画への転向

大倉孫兵衛

大倉孫兵衛

「日の出商会」がニューヨークで商売を始めたその頃、日本の「森村組」では貿易への思いに共感した市左衛門の義弟、大倉孫兵衛が参加するようになっていました。家業が絵草紙(挿絵の入った本)屋であったこともあり、孫兵衛は美的感覚に非凡な才能を持っていました。そしてその才能はやがて陶磁器製造を始める「森村組」で大いに開花することになります。

1880年代後半 専属画付工場製品(上段右杉村、下段左から藤村、井口、藤村)

一方、卸売専業に転換した「モリムラブラザーズ」は年々その規模を拡大し、わずか数年で当時の日本としては屈指の商社へと成長していきました。自社企画による商品開発にも取り組むようになり、この頃から次第に「ファンシーウェア」と呼ばれる花瓶、飾皿、飾壷などの装飾品が商品の中心となっていきます。孫兵衛は東京、京都、名古屋といった画付工場と専属契約を結びながらニューヨークからの注文品の製作に深くかかわっていきます。

シカゴ万博

1893年「モリムラブラザーズ」が取扱う商品のデザインが大きく転換するきっかけとなる出来事がありました。シカゴ万博の視察を目的に渡米した孫兵衛はそこで欧米先進国の陶磁器を目にし、その洋風画付のすばらしさに衝撃を受けたのです。そしてさらなる活路を開拓するためアメリカ人の好みに合わせた洋風画への転向が必要だと考えたのです。孫兵衛は早速、洋風画の見本や絵具、絵筆など、独特の画付け道具一式を買い集めて日本に持ち帰り、画工たちへの説得を始めました。

1884年-1890年頃 色絵金盛薔薇唐草文皿
1911年 色絵金点盛薔薇文双耳花瓶

当初、頑固な職人気質の画工たちはなかなか首を縦に振ろうとせず、洋風の画付けを試そうともしませんでした。しかし次第に孫兵衛の熱意に動かされ洋風画付け技術の習得に励むようになります。もとより高い技能を持った画工たちはあっという間にその技術を身に付けました。洋風画付けの陶磁器は飛ぶように売れ、輸出先から注文が殺到しました。

オールドノリタケ

また、洋風画への転向が進むとともに、そのデザイン画が必要となりました。これまでは日本画家が描いた図案(デザイン)を画工が画付するという手法をとっていましたが、1895年、ニューヨークの「モリムラブラザーズ」内に図案部を設け日本人デザイナーにデザイン画を描かせるようになりました。最新のファッションや流行、アール・ヌーヴォーなどの美術様式を取り入れた華やかなデザイン画は日本の森村組専属画付工場で原画に忠実に画付けされ、大いに好評を博すこととなります。

マスターピースコレクション Queen's Garden(クイーンズガーデン)

こうして、この頃から第二次世界大戦の終わりにかけて欧米に輸出された製品たちはやがて「オールドノリタケ」と呼ばれるようになり、今現在も熱心なコレクターたちにより蒐集され、大切にされています。

思えば伝統とも言えるノリタケの技術習得における熱心さ、ひたむきさはこの頃からすでに始まっていました。そしてノリタケの財産とも言えるこの美的感性と高い技術・技能は、今なお現代の職人たちに継承されています。またそれらの素晴らしい表現力はノリタケ最高峰作品と呼ぶにふさわしい「マスターピースコレクション」の中に見ることができます。