Histories of NORITAKE白く精緻な洋食器の
製造へ向けて

白色陶磁器づくりへの挑戦

1914年 日本初のディナー皿 SEDAN(セダン)

パリ万博

1889年、市左衛門は豊とともにフランス革命100周年を記念して開かれた「パリ万博」へ視察に訪れます。そこには目を見張るような美しい陶磁器が欧州各国から出展されていました。高い製陶技術と美しい画付けに感銘を受けたふたりは、パリ郊外の陶磁器工場を見学します。そこでは機械化され、合理化された作業工程を経て均質な陶磁器が大量に製造されていました。市左衛門はいつか日本でもこうした大量生産方式の工場が必要になると痛感し、その直感をやがて現実のものとしていきます。

パリ万博から5年後の1894年ニューヨークの「モリムラブラザーズ」に現地の大型専門店「ヒギンズ&サイター」の店主がやって来てこう助言しました。「今後も陶磁器を扱うのであれば、需要が期待できるテーブルウェアを扱ってはどうか?」そしてさらにこう続けたのです。「ただし、テーブルウェアは生地が白色でなければいけない。ぜひ、白色の陶磁器を作りなさい」と。当時、瀬戸で作られていた陶磁器の生地は青みを帯びた灰色でした。欧米人が好むような純白の生地を作ることは、今後の欧米での販売を考えると避けては通れない道でした。このアドバイスはすぐさま手紙にしたためられ、東京の「森村組」に送られました。

白色の陶磁器

その頃の「森村組」の輸出用主力商品は花瓶や置物などの「ファンシーウェア」と呼ばれるものでしたが、その手紙を読み市左衛門たちはテーブルウェアとしての王道とも言える白色の陶磁器を創り出す必要性を強く感じます。また、時を同じくしてシカゴ万博を視察していた孫兵衛も、洋風の画柄を引き立たせるためには白色の陶磁器がどうしても必要だ、と感じていました。

白色の陶磁器

その頃の「森村組」の輸出用主力商品は花瓶や置物などの「ファンシーウェア」と呼ばれるものでしたが、その手紙を読み市左衛門たちはテーブルウェアとしての王道とも言える白色の陶磁器を創り出す必要性を強く感じます。また、時を同じくしてシカゴ万博を視察していた孫兵衛も、洋風の画柄を引き立たせるためには白色の陶磁器がどうしても必要だ、と感じていました。

こうして「白色硬質磁器」を自社で作りだすという命題に向け「森村組」は、生地製造の研究に着手すべく、1899年に森村組名古屋店構内に生地製造研究所を設置しました。

そして同じ頃、洋風画付け陶磁器の製造により増加した取引量に対応できるよう、素地の荷受けや製品輸出の立地条件に恵まれた名古屋への専属画付工場の集約へと踏み切り、1898年には集約を完了します。こうして、自社内での生地製造研究と画付工場の集約という二つの条件が名古屋の地に揃い、日本陶器の創立へとつながっていったのです。